カメラマン
根来寺で写真家になって来ました。
根来寺(ねごろでら)を開創された覚鑁(かくばん)上人のイベントがあるとかで。写真家では無いですが
確かに仕事上は「家」がついている仕事かな
で
でポスターのカメラマンに変身・・・これもおもろい・・・いろんな機会を与えてくれる人々に感謝





山の薬局
11月22日・23日に開催する世界民族祭り「わんぱく」
IN真国宮(会場-りら創造芸術高等専修学校)に出展する昔遊びの打ち合わせで紀見野町へ~~とある薬局のオーナーがしゅろの葉で動物をつくる情報
何と精巧なバッタが
(あわてて撮ったので暗くてゴメン)そこへ怪獣バッタが
これがしゅろの葉で作ったバッタです。本物のバッタさん「脅かして済みません
でした
IN真国宮(会場-りら創造芸術高等専修学校)に出展する昔遊びの打ち合わせで紀見野町へ~~とある薬局のオーナーがしゅろの葉で動物をつくる情報





終点の横に
この軌道は水軒浜を木材団地に埋め立てた時に出来ました。木材を運ぶためになんですが時代遅れの施策だったのか南海が木材を運搬したことは聞いたこと有りません
防風林の松林が子供の頃の懐かしい思い出です。
線路の横では「水軒の浜に松を植える会」が
松の植林を行っています。西浜中学の1年生が植えました。
広報板の横には
知事も市長も植林したそうですが木材団地の埋め立てを決定したのはその頃の首長なのです






チラシ配布
25日のシンポジウムでは「和歌山大学博物館『蘇れ雑賀惣国』プロジェクトの挑戦」という記念講演があります。そんな関係で矢の宮神社を訪ねました。いつも地鎮祭をして頂くY宮司とS宮司にご対面
今晩の秋祭りの準備中
忙しそうなので
チラシを置いて早々退散してきました。雑賀地区の子供達、大いに遊びましょう




リビングフェスタ
17日と18日には片男波でリビングフェスタが開催される楽しそうなイベントが一杯でグルメ横丁も楽しみ
「からびな」もわかしらす丼を出店すらしい
吉川知粧書
当日までにショップカードのデザインを仕上げて印刷まで終了させま~す

「からびな」もわかしらす丼を出店すらしい

当日までにショップカードのデザインを仕上げて印刷まで終了させま~す


先覚
新和歌浦観光の先覚森田庄兵衛翁顕彰碑
は萬波の手前の急勾配の坂道下にあります。

長文ですが近代史に興味をお持ちの方は読んで下さい。
文久2年、明治維新の6年前、現在の和歌山県かつらぎ町妙寺で生まれた。慶応義塾に学び、帰郷後、家業の酒造業「帯庄」を継いだ。その頃の帯庄は県内では屈指の生産量を誇っていた。彼は家業の他にも、銀行・繊維産業・鉄道などの創立にかかわり実業界で幅広く活躍した。明治44年には多額納税者として貴族院議員に選出されている。
森田が、後に新和歌浦と名付けられた未開の地の観光開発を思い立ったのは明治40年頃のこと。今から100年前である。
彼がこの地に注目したのは、美しい海岸美に魅せられたからであろうが、彼が鉄道事業に関わって、近代的な観光開発の視点から和歌山を見ていたことも忘れることができないだろう。
彼は独力で、高津志山の南東斜面である新和歌浦ばかりでなく、北西斜面の西浜の山林、さらに田野浦の山林、合わせて約450,000㎡を買収し、そこに第1、第2トンネルほかの道路を通し、用地を造成し、水道設備を整え、今日の新和歌浦の原型を形作った。そこは新和歌浦遊園と名付けられた。
大正6年には新和歌浦土地会社を設立し、積極的にこの一帯の経営に乗り出した。その一環として「仙集館」、現在の「萬波」の前身、の開業がある。ここには幾つかの別館を備え、水族館・美術館なども計画された。しかし、「仙集館」開業の頃は第一次大戦好景気の絶頂期。時を待たずして戦後恐慌となり、更に関東大震災が追い討ちをかける。このような時代、会社の新和歌浦経営は厳しい状況に追い込まれたことは想像に難くない。
彼は、大正13年11月、志半ばにして自ら開発した高津志山中腹の別荘で没した。享年62歳であった。その後の新和歌浦は、様々な人々によって受け継がれ今日に至っている。
なお、このような彼の先駆的な活動の跡は、現在でも第1・第2トンネルや、萬波の下の煉瓦造水族館跡に見ることができる。
100年経ってもこんなカリスマはまだ生まれていません
は萬波の手前の急勾配の坂道下にあります。

長文ですが近代史に興味をお持ちの方は読んで下さい。
文久2年、明治維新の6年前、現在の和歌山県かつらぎ町妙寺で生まれた。慶応義塾に学び、帰郷後、家業の酒造業「帯庄」を継いだ。その頃の帯庄は県内では屈指の生産量を誇っていた。彼は家業の他にも、銀行・繊維産業・鉄道などの創立にかかわり実業界で幅広く活躍した。明治44年には多額納税者として貴族院議員に選出されている。
森田が、後に新和歌浦と名付けられた未開の地の観光開発を思い立ったのは明治40年頃のこと。今から100年前である。
彼がこの地に注目したのは、美しい海岸美に魅せられたからであろうが、彼が鉄道事業に関わって、近代的な観光開発の視点から和歌山を見ていたことも忘れることができないだろう。
彼は独力で、高津志山の南東斜面である新和歌浦ばかりでなく、北西斜面の西浜の山林、さらに田野浦の山林、合わせて約450,000㎡を買収し、そこに第1、第2トンネルほかの道路を通し、用地を造成し、水道設備を整え、今日の新和歌浦の原型を形作った。そこは新和歌浦遊園と名付けられた。
大正6年には新和歌浦土地会社を設立し、積極的にこの一帯の経営に乗り出した。その一環として「仙集館」、現在の「萬波」の前身、の開業がある。ここには幾つかの別館を備え、水族館・美術館なども計画された。しかし、「仙集館」開業の頃は第一次大戦好景気の絶頂期。時を待たずして戦後恐慌となり、更に関東大震災が追い討ちをかける。このような時代、会社の新和歌浦経営は厳しい状況に追い込まれたことは想像に難くない。
彼は、大正13年11月、志半ばにして自ら開発した高津志山中腹の別荘で没した。享年62歳であった。その後の新和歌浦は、様々な人々によって受け継がれ今日に至っている。
なお、このような彼の先駆的な活動の跡は、現在でも第1・第2トンネルや、萬波の下の煉瓦造水族館跡に見ることができる。
100年経ってもこんなカリスマはまだ生まれていません
サボりました
サボった時は地元の画像」
郷土の空き家で町では中央に位置します。コミュニティに利用したいのですが・・・?で今日はミュージックツアーで楽しんで来ました。オールドタイムでまことちゃんのジャズボーカルとサイバーバンドのD氏のアットホームな演奏、高校先生のノースクラウド、会場を移してFMバナナのパーソナリティの晴代ちゃんを回ってきました。撮影をサボってごめんなさいm(_ _)m

お誕生日
和歌浦漁港の和みレストラン「からびな」は10日で1周年です。土日のランチにはお待たせすることもありますがご贔屓に感謝しています。オーナーのこだわりは
繋ぎあわすための工具です。ブロガーさんも様々繋ぎあわさっているのが「いこらブログ」ですよね。この100均かのホルダーはLVのホルダーより重宝しています。散髪屋さんの誕生日プレゼントでがお陰で無くさなくなりました。それでも所在が判らない時のために携帯から鳴らすホルダーが出来ないか研究中です(笑)

個人情報
先ほどTVニュースで個人情報の番組が・・・・
和歌山のタウンページやハローページを重ねても力自慢のアナウンサーは簡単に真っ二つに破るでしょう。私も電話は携帯が殆どで固定電話は投資や電話システムの営業ばかりで利用しているのはFAX程度。今や本名を検索すると電話番号まで公開してしまって・・・・。でも25年前仕事に関わらせて頂いた方から久々の電話。ネットなどのツールが無ければ再会は無かったかも??皆さんはどう思いますか??

和歌山のタウンページやハローページを重ねても力自慢のアナウンサーは簡単に真っ二つに破るでしょう。私も電話は携帯が殆どで固定電話は投資や電話システムの営業ばかりで利用しているのはFAX程度。今や本名を検索すると電話番号まで公開してしまって・・・・。でも25年前仕事に関わらせて頂いた方から久々の電話。ネットなどのツールが無ければ再会は無かったかも??皆さんはどう思いますか??

10・25
シンポジウム・和歌の浦の再生にむけて
記念講演は
「和歌山大学博物館:『よみがえれ雑賀惣国』プロジェクトの挑戦」
和歌山大学教育学部海津一朗教授 と
「将来像への選択の岐路」
和歌山大学システム工学部本多友常教授
ともに20分程度の講演です。
記念講演は
「和歌山大学博物館:『よみがえれ雑賀惣国』プロジェクトの挑戦」
和歌山大学教育学部海津一朗教授 と

和歌山大学システム工学部本多友常教授
ともに20分程度の講演です。